ぴよてぃの青い本

私が織りなす言語ゲームの一環

ぴよてぃ、知識との交流。

毎度毎度、猫の写真が楽しみになる「猫と名言」。

今回リツイートしたソクラテスの言葉に寄せて、ぴよてぃの知識とのふれあい方をちょっと紹介。-△-=3

 

"本をよく読むことで自分を成長させよ。本は著者がとても苦労して身につけたことを、たやすく手に入れさせてくれるのだ。"

ソクラテスの言葉らしいが本当にソクラテスのものかはさておき)

 

まず一般論から...著者側の立場に立ってみれば、本を書く理由はたくさんあるだろうけれど、大体の人は伝えたい何かがあって書いているはず...-ㅅ-

となれば、その伝えたい内容を分からせるために、なるべく理解させるような書き方もしているよねÒ△Ó

そういうわけで、本はある種エッセンスを分かりやすく伝えるために文を書いたらああなった、というアイデアの現れでもあるわけですっ*ÒㅅÓ(文章の形式、随筆とか評論とかにもよるけれどね!)

 

本をそういった視点で眺めてみると、この著者はこれが言いたいのだ、というところをよく理解できると思いますÒ△Ó

そして案外、大抵の本に埋められたアイデアは本の中にたくさんあるわけでなく、コアとなるアイデアからいくつかの例を辿ったり、そこから生じた新しい疑問点などを経てアイデアとその周辺までを理解させようとする...結局頭に残しておいていい部分というのは本の中の、本当に一部だけだったりするのです。

と言っても、それは背景に(頭の中に)理解した形跡があるからこそ、その一部が今後に生きてくる知識となるのですけれどねっヾÒ△Óシ

 

もちろんそういうアイデアぎっしり本もあるけれど、それは全部吸収しようとすると何度も読まないと身につかないものだったり...うん、いい例が聖書かな・ㅅ・(うちはクリスチャンではないけれど、読んでみると中身は凄いのは確かです)

そういうものは本当に何度も何度も読み込んで、理解して実践して、そうしないと生きてこない本とも言えるかもしれないです-△-=3

 

さて、そういうわけで私にとって知識はこうやって本から一部いくつか抽出して利用するもの(人から聞いた話も参考にはするけれど裏付けを確認することが多い)だけれど、それ自身が強固な一つの基盤となって私の歩く道を支えてくれているのですヾ・ㅅ・シ

取り出した知識...もとい知恵といった方がいいかもしれないっ。

それをしっかりと信頼してどう日常に当てはめていくかが大事Ò△Ó

 

要はぴよてぃにとって知識・知恵というものは、私が人生という道を歩くために使える道具の一つに過ぎないのです。

私の中に入り込んでしまえば、それが外の世界、私の頭の外でどう使われていようがいまいが、結局のところ使い手である私の使い方には何も影響できないっ-ㅅ-=3

これはヴィクトール.E.フランクルの見出した "反応の一歩手前の状態" (「与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできない」"夜の霧"より)を少し拡張したものかも...ん、単に態度としての行動、という側面でしかないかもだけれどÒ△Ó

 

書き方から分かるかもしれないけれど、私はそういう意味で知識・知恵を崇拝するような態度は必要ないとも考えています-ㅅ-

もちろんその知識・知恵を見出した人は凄いかもしれないけれど、その知識を大事に大事にしようとするよりは、見出した人たちが何故それを記していったのかを考えればどうしていったらいいかすぐ分かるはず...。

うん、使ってあげないと、ってことですよね*ÒㅅÓ

 

そういうわけで、知識・知恵はひとつの道具!とみなしてしまっているぴよてぃでしたっヾÒ△Óシ

(想像するならPSO2のサモナーでどうぞÒ△Ó クエストクリアとか目的達成するためにタクト振り回すのが私、そのために扱われるのがペット=知識・知恵、という感じっ)

 

 

参考①

今回の話の中の考え方には元ネタがありましてÒ△Ó

その元ネタとなった「本を読む本」という本があるのだけれど、そこには本によって読み方を変える必要が私たちにはあるのではないかとの指摘がありますっ。

一つ本をもってきても、それがどういった本なのかを点検するところから始めたり、中身がどうなってるのか分析していったり、批判的に読むことにしたり...。

他にも、これは本当に私が読むべき本なのか?を考えるなど、そもそもから問い始める必要も訴えてますÒ△Ó

ちなみにこういう視点は世界中でよく読まれているような "息が長く信頼性を備えている" 本にも書かれていて、やはり原点を問う思考はどこでも役立つのだなぁと感じていますっ*>ㅅ<=3

よく言われているように、初心に帰れ、というところです!日常生活も一緒っÒ△Ó*

 

参考②

本や知識・知恵の信頼性、というものを考えてみたとき、どういうところからの情報であれば信頼するか、すんなり受け入れるかということが問題になってきたりしますÒ△Ó

ちっちゃい子が小難しい事を喋っていて、その内容を本当の事だとしてしっかり受け入れるかどうかはどうやって判断します??ヽ・ㅅ・ノ

他にも、いくら本に書いてあるからと言ってもまったく無名の出版社(最近できたばかりとか、実は老舗だったとか)から出ていた場合の信頼性は??

冒頭であったように本当にソクラテスの言葉だと信頼していいのか??

...とかÒ△Ó

つまりっ、こういう信頼性を考える時には情報リテラシーも重要になってくるということです*ÒㅅÓ

 

参考③

お金も道具の一つ。←

ぴよてぃ、もやもや...。

もやもやー。

ぴよてぃの頭の中、とってもこんがらがっています!ヽ-△-ノぷぇーー。

 

やることもいっぱいあるのだけど、自分のやりたいこともたくさんあって、そういう時は今なされるべきことに焦点を持っていきたくなる...でもその焦点となることが、どれだけあるのかぜーーーんぜんわかっていないのだっ。

 

同じようなことをお兄に相談したことがあります・ㅅ・

返ってきた答えは「すっきりするまで全部紙に書いてみたらどう?」と。

 

タスク管理の手法の一つで "GTD" というものがあるのですが、それを言っているようでした-ㅅ-ふむむっ

日々タスクを書き出して一つずつ潰していった方が頭の中で考えているよりよほどいい、とのこと...。

 

うちもスケジュールの逐一を覚えていられるほど記憶力に自信はないからなぁÒㅅÓ;

 

ということで昔の教えを思い出して、これから日々ちょこちょことタスク管理をしてみようと思います*>ㅅ<ゞ

うちのPSO2のタスクとして、とりあえずINしている間に

①チーム・デイリーオーダー消化

②素材収集・加工

くらいは手を付けられるようにしようと思いますっÒ△Ó*

 

なんか燃えてきたっ!ヾ>ㅅ<*シ

ぴよてぃとゲーム。

※まだまとまってないので、今後加筆修正予定です・ㅅ・ゞ

 

訳あっていろいろ考えていたのですが、ついに「ゲームをすること」について考えるときが来ました!Ò△Ó(?)

 

Q2.ゲームはなぜやめられないのか?

 

ゲームをしているいつもの自分の姿から、少し距離を置いて考えてみようっ。

まずはゲームをしている自分がいる光景を浮かべてみて、「なんでゲームしてるんだろう」と考えてみる...・ㅅ・

 

何やってるんだろう...?キーボードかちゃかちゃして、何やらチャットをしているようだ...ÒㅅÓ

他にも画面のキャラクターを動かして何かしている、この空間だけ見たらひとりで何やら画面をじっくり見ている感じだけれど、それは周りから見てもあんまり面白くなさそうな...?-ㅅ-;

でもきっと、本人は楽しんでいるのだろう。テレビの前でじっくりと座ってドラマとかお笑い番組とかを見て "楽しい、面白い、もっと続きが見たい" と思っている人たちと同じようにÒ△Ó

 

Q2-1.ゲームとは何か?

 

正直ゲームもテレビ番組も、構図としては同じものかとっ。

ソフトウェアの面で同列に並べられて、ゲームデータの作製、番組の作製はともに同じ性質のものではないかとÒㅅÓ*

誰かが特定の人々を動かすために、ゲームを、番組を、作り上げたのですから。

 

兄と共に遊んでいると、ゲームばっかりしてるとアホになるよー、と昔母親からよく言われていました-ㅅ-

ただ、自分たちはそれをとても楽しんでいたというのは事実でした。

傍から見たら「何が面白いんだろう」と言われ、小一時間説明しようとしたのですが結局やってみたら分かるかもって言ってやらせてみたり...。

それで分かってもらえた時もあれば、そうならない時もありました。

もちろん、自分でその楽しさというものをうまく説明できなかったからです。

「同じ体験をしたら分かってくれるだろう!」という安直な考えで理解してもらおうとしたのですが、そりゃあ人それぞれ好みも興味も違いがあるし...ÒㅅÓ;

 

Q2-1-1.相手に自分を理解してもらうために、好みや興味をそのまま相手に"貼り付ける"ようなことはできるのだろうか?

 

多分無理っ。

それこそ、意識をそういう風に変えられる方法があるのなら、私たちは自分たちの都合のいいように相手を動かすことができるようになるかもしれない...ε=-△-;

...あまりにも恐ろしい未来がチラチラと見えますねっ。

動かすもの・動かされるもの...ええ、FFTの物語を思い出しますÒ△Ó*

 

Q2-1-2.相手は自分と違って趣味・趣向も違うのだから、常にそこには差異があるのだと考えるべきか?

 

その通り、自分は自分、他人は他人、彼は彼、彼女は彼女。

それはどうしても変わらない・変えられない事実であると認識しておくことは、ある程度の意見の違いや熱意の差などの理解・受容にもつながりますÒ△Ó

寛容になるための一歩、また共同体感覚を身につけるための一歩でもあるかもっ。

 

Q2-2.ゲームは何を生み出すのか?

 

自分に正直に聞いてみてください。

何が生まれましたか?

 

私なりに答えてみると...。

遊ぶことで楽しさを見出し、気分転換ができてリラックスもできます。

オンラインゲームであれば人とのつながりもでき、場合によってはリアルでの付き合いまでつながることもありますっ。

(程度の差もありますが、人によっては全然そういうこともなかったり)

現実世界での報酬というのは、きっと自分のみに還元されるものがほとんどで、他人から見ると進展がないように見えるかもしれませんね。

確かに手に入れたものは楽しさくらいかもしれないけれど、それが例え誰かによって作られたものだとしても、その際の自分が楽しさを手に入れたかったのだろうと...そういう状態であったという事実のみを認識しておきましょう。

それでゲームが無駄なものだと思ってしまったら、今度は自分が動かすものになる番かもしれませんっ。

 

 

A2.その時々の欲求が先行しているから。ただし欲求の背景は考察する必要があり、純粋な欲求であるのが望ましい。

 

 

さっき見つけたこの記事も参考になるかと思いますっ。

ちょっと親近感を覚えましたÒ△Ó* ←

 

夜更かししすぎた、おやすみなさいっÒ△Ó;

 

ぴよてぃと成長の実感のための現実主義。

(なるべく分かりやすく...)0o。≡・ㅅ・≡

 

回を追うごとにますますわけわからんタイトルになっている気がするけれど、今回は日々のスキルアップのために現実主義を取り入れることのすすめをばっ

ここでいう現実主義は、無党派云々と言われる現実主義ではなく、単に「現実、今目の前にある事実をもとにして判断する傾向」を指す感じですÒ△Ó

 

 

成長したい!と思ったときは、"現実"をもとに、自分のスキルや能力、知識量、その他諸々、そういったものの成長の程度を判断するのがいいのではないか...というところですねÒㅅÓ*

これ、次に挙げる4点ほどの現実主義のtipsから学び取ったことです。

 

 1.他人と比較すること自体がナンセンス

 2.成果は行動によってのみ示される

 3.自分の人生は自分でしか動かせない

 4.「私」は広くヒトのなす共同体の一部を構成するのみ

 

 

...それで成長をどうやって判断するのー、ってことですが、まず1.にあるように他者との比較による成長の実感はナンセンスだと思ってくださいっ。

成長を正しく判断するには、別の時点での自己との比較でしか成しえないのですヾÒ△Óシ

それで、過去の自分との比較をすることで(=自分の成しえる範囲を知ることで)成長を実感する...という感じですね。

 

ただその成長を判断するには、なにかの成果がないといけないです。そこで2.になる、ってことですε=>ㅅ<*

これまでの自分より頭一つ分、何か成しえたというところがないと、本当に成長したという示しは自分にも他者にも見て取れないのです。

そのために、行動で示す必要があるとÒ△Ó*

もちろん、その成果につながるまでの行動に含まれる思考過程の変遷は自分でも実感できると思いますっ。

それは言うまでもなくあなたの中での成長を意味しているので、それを誇らしげに思って、前に進んで行けばいいと思います。

 

で Ò△Ó

 

3.自分の人生は自分でしか動かせない、というところがどう活きているのかですが...

ちょっと難しい言い回しかも、もともと私たちがこうやって思考できている状態のこの頭の中の知識の構造体が、自分によって作られるか、他人によって作られるか...というところかな?

簡単に言えば「自分で紡いだ知恵」なのか、「他者からの入れ知恵」なのか、というところかとヾÒ△Óシ

 

...うん、言うまでもないですね!

他者からの入れ知恵だけで、自分が望む成長ができるかというと、ムリ!´・ㅅ・`

成長のベクトルがおかしくなって、行きついた先は望んでいなかったところだったり、変なところだけ伸びていたり...Ò△Ó;

なので、自分の成長の実感のためにも、自分で成長する方向付けをするのが一番望ましいというところですっ。

 

あと小難しい感じの、4.「私」は広くヒトのなす共同体の一部を構成するのみ、というところ...ÒㅅÓ;

これは1.とも被っているし、また自分への戒めでもあるような感じですっ。

 

共同体という概念が難しいのかもだけれど、数学の集合みたいなものと考えればいいかなーÒ△Ó

ヒトというそれぞれ独立した要素があるけれど、その集合は伸縮可能で、例えば家族でも共同体だし、学校の同級生でも共同体だし、地域住民というくくりでも共同体だし、世界中の人々というくくりでも共同体だし、もっと広くいけば(いるか分かんないけれど)遠くの星に住んでるような生き物や物質も含めて共同体だし...という概念っ。

分かった人もいるかもしれないけど、アドラーさんの"共同体感覚"の共同体の概念ですÒㅅÓ*

(私はこれ、結構最近のいじめ問題への治療として必要な感覚だとも思っています。帰属のおかしい被虐思想で自分を苦しめている人たちが多すぎて...。)

 

それでこれは1.と同じように、他者と比較はしなくてもよいということでもあり、また自分が他者と比較できる位置にあるものではないという戒めでもあるのですヽÒ△Óゝ

自分は自分、他人は他人、だけどそれぞれ遠く離れているわけではなく、お互いにみな共同体を構成している一人なのであって、それは揺るぎ無い事実なんだと。

だから、目先のことをしっかり見て、自分の成しえる小さな成長を噛みしめていって、みんなそれぞれ歩んでいくんだろう...ということです>ㅅ<*

 

 

要は「現実を見ろーヽÒ△Óゝキシャー」というところですが、"現実"としてみるものを間違えないようにはしないといけないですね!><

何を以て判断するか、それはやっぱり1.~4.で触れたような間違った比較・間違った指標・間違った方向づけによるものではいけない、ということですっ。

ということで、見るべき"現実"としては、

 

 「別の時点での自分との比較」

 「取れる行動の幅広さ」

 「成長の方向づけに基づいているかどうか」

 

といったところを意識してみると、成長しているかどうか分かりやすいのではないでしょうかーっ๑・ㅅ・b

 

以上!いつもよりかなり早く目が覚めて何か書きたくなったぴよてぃでしたー。

∑¦3_ヾ)_

 

***参考になりそうな本たち***

・「嫌われる勇気」岸見一郎・古賀史健 ダイヤモンド社

 ⇒共同体感覚の重要性を説いたアドラー心理学の入門にはおぬぬぬ≡・ㅅ・≡

  悩める人にとっても役立つ本ですÒ△Ó*

・「Life Strategies」Phillip McGraw HyperionBooks

 ⇒邦訳あります「史上最強の人生戦略マニュアル」訳:勝間和代 きこ書房

  邦訳のタイトルはちょっとやりすぎな気が((

・「経営者の条件」著:P.F.ドラッカー 訳:上田惇生 ダイヤモンド社

 ⇒個人のマネジメントに必要な概念の説明ありÒ△Ó

  スキルアップの一段階上、望む自分を作り上げるためにかなり有用、一読あれっ

ぴよてぃと語の意味の使用。

かの青い本は、語の意味とは何か、という問いから始まっていますヾÒ△Óシ

 

この問いかけは、最近の人たちに特に大切にしてほしいと思います-ㅅ-

何がどうあっても最終的には言語によるコミュニケーションは欠かせないものだからこそ、ですっ。

とはいえ言葉で自分を表すのは難しいと思う人もいるかもしれません。

ですが、それは自分の語の意味の使用がはっきりしていないからである、ということでしかないと思うのです。

 

自分を表現するために何が必要か??

簡単に言えばその状態にしっくりくる言葉遣いを知っている、もしくはそれを調べて用いることができる、それだけ。

しっくりくる言葉遣いは、自分の感情・情動と照らし合わせて、あなたが選んであげればいい。

それが、語の意味の使用をはっきりさせることと言えますっÒ△Ó

 

語の意味は、自分の感情をなるべくそのまま指すようなものであればよい。

それを選んで使う、それが語の意味の使用。

すなわち、言葉遣いは自分の気持ちとよく向き合って選んであげれば、それで十分よくなるものなのです。

相手がどう受け取ろうが、それが自分の選んだ言葉なのであれば、語の意味の使用、語の意味をしっかり吟味したうえでの表現だと言えるのですからÒㅅÓ*

それで相手がどう動くかは、相手次第ですし。

 

即時的な日常会話などでは、その語の意味を明示しなくてもわかるようであれば、いちいち考える時間をかけなくても伝わることには伝わります。

でもそれは、いわゆる語の意味が伝わる集団の中だけで通用することで...。

「ヤバい」なんて言っても何がどうなのかわからない人もいます。

そういう時、語の意味とは何か、あなたが表現したいその気持ちをより正確に表す語彙は何か、そう考えてみるともっとしっくりくる表現がでてきて、それを使うことで相手にも理解してもらいやすいのではないかと思うのです>ㅅ<=3

 

...難しい話になった気がした!笑

結局私が言いたいのは、ひと手間かけてあげれば自分の表現を磨くことにもつながるので、語の意味の使用を明らかにするという作業は、やっておいて損のない事なのではないかなーと思うのですっ。

日々言葉の使用の際にそんな時間がないと思っても、多分あとで振り返りくらいはできます。

あとでああ言えばよかったかなーなんて振り返ることだってできますし、私で言えば、こういったブログの投稿をゆっくり見返してもいいですし。

 

ホントは、その語の意味の使用の先(奥)に、もっと別の目的まで見えている方がいいのかもしれませんけどねっ≡・ㅅ・≡この記事の意味みたいに...((

※これを書くことで何が起こるのか?うちは「単に書きたいだけ」なのではなく、建前として書きたいだけと言っているだけで、本当はみんなにもっと話す言葉自体を考えてみてほしいと思っていて、考えてもらえるようになればもっとみんなが本音で語り合えるような関係になって、より関係が深まっていくのではないか、といった気持が隠れているような...??まぁでもワカンニャイ!←

ぴよてぃと言葉。

どうしても素早く流れるコミュニケーションに追いつけない時、悶々とした気持ちを言葉にしてまとめておきたくなるっっ ヾ>△<;シ

ということで、ブログ始めました!!ヽÒ△Óゝ デデーン

 

それで早速ですが...とある哲学者の本と出会って以来、真剣に「言葉」について考えることになったので、ここで一つ疑問を投げかけて意見を書いてみようと...≡・ㅅ・≡

 

Q1.日々私たちがこのように用いている言葉は、一体どういったものなのか??

 

言葉それ自体のとらえ方は、もちろん人それぞれ...。

ただ、言葉の性質として、次のことはどんなときでも言えることだと思いますっ。

 

「頭の中に生じた思考を表すために織りなされた言葉は、語られ、伝えられ、他人や自分に影響を及ぼし、またそれが言葉を語った人をその人たらしめる。」

 

しゃべったことが相手に伝わって、それが相手の心にどう響くか、また相手がどう受け取るかは分からないけれど、相手に伝わった際に何らかの影響を及ぼしたり...。

そのしゃべったこと自体も、相手の心の中にしゃべった本人を印象づけたりもする。

また、口に出した言葉を自分の中でも引きずることがあり、それが自分に影響を及ぼすこともある、と๑・ㅅ・๑

 

これを裏返してみれば、語る言葉によっては相手に自分自身の思いどおりの印象づけをしたり、またうっかり口から出た言葉が相手にとっては最悪の受け取られ方をすることもある、ということにもなります。

 

ということは人生のtipsとしては、言葉の扱い方をうまくやれば日々もっと楽に過ごせるかもしれない、ということにもなりますヾÒ△Óシ

コミュニケーションの一環として言葉を使わないことはほとんどないと思いますが、語る言葉が聞いている人(相手、自分、周囲など)にどういった影響があるかは考えておいて損はないでしょうっ。

当たり前の事と思うかもですが、殊言語のみに頼りがちなインターネット上でのコミュニケーションにおいては気を付けてもよいことなのではないかと思ったので、ここに書き記しておこうと思った所存ですっÒㅅÓ*

 

うちの思考をなるべく理解してもらいやすいように書いたつもりですが、それでも分かりにくいという方は...一度自分と他人の関係を図式化して考えれば、言語の影響は見えやすいと思います!*>ㅅ<=3

また時間あったら図式化してみますね*ÒㅅÓゞ

 

ということで、初回はここらへんでおしまいっ。

悶々としたら言葉にしていこーー。スヤァ∑¦3_ヽ)_